大河ドラマもクライマックスに向けて動きだしていますね。大阪の陣も、興味があるのですが、しかし攻城戦です。やはり、色々な動きがあった「関が原の合戦」と比べるとちょっとね・・・
関が原に実際に行ったこともあるのですが・・・わかりませんでした。いや、もう普通の平野というか田んぼに「関が原合戦決戦地」なんて塔があるのですが、周りは何もありません(当たり前か・・・)
地図とかを見て、笹尾山の三成の陣跡に行っても想像できませんでした。とにかく広いんです。
「関が原ウォーランド」に行って、そこで色々遊びましたが、それくらい。まあ、ウォーランドは・・・まあ・・・
さて、今回の本題ですが、関が原の合戦と言えば「西軍だった小早川秀秋が東軍に寝返る」ことで勝敗が決定的になったと言われます。
しかし、「歴史人」を読んでみると全くそういう風には思えませんでした。
主な出来事を書いてみます。
・1592年 従三位権中納言兼左衛門督に叙任される(11歳?!)
・1593年 秀吉に2人目の男児 秀頼誕生!(やばーい!)
・1594年 小早川家の養子となる
これは、おねが秀秋の事を心配して避難させるために黒田官兵衛に相談したらしい。黒田官兵衛は、小早川隆景(毛利元就の3男)に毛利宗家の養子にすることを提案。
小早川隆景は、毛利宗家を守るために、小早川家の養子として秀秋に家督を譲ったらしい。
・1595年 関白秀次の謀反事件
秀秋は、秀次につぐ継承者として見られていたためか?危険度はアップ。
・同年 隆景が隠居して安芸三原城に移動し、筑前名島城30万7000石を譲る(養父優しい)
・1597年 慶長の役に総大将として出陣。なぜか、秀吉に怒られ筑前名島城没収(ボッシュート)(泣)
・1598年 秀吉死去した後に、家康が筑前名島城30万7000石に復帰させる(ヤッター!)
この事実を見れば、西軍に加担するイメージはわかないなあ。しかも、関が原の前哨戦とも言える伏見城攻略では、東軍の家康の最古参とも言える鳥居元忠に入城を申し入れたとも言われている。元忠に拒否されたために、仕方なく攻めている。これは、島津義弘も同じ。
でも、すでに戦闘状態になっている時に、どちらともわからない軍勢に城に入れてくれって言われても普通入れない。しかも、秀秋だったら・・・
その後の行動も怪しい動きをする小早川。決定的なのは、関が原の松尾山に陣取っていた西軍の大垣3万石・伊藤盛正と小競り合いになり追い払う形で陣を敷いている。
西軍の武将を追い払っていることを見ても、明らかに東軍に加勢しているとしか見えない。三成は、本当に秀秋の寝返りを予想できなかったのか?不思議だ。
さて、もう1つのエピソードとして、なかなか参加しない秀秋に業を煮やした家康が鉄砲を撃ちかけるという話・・・実際に距離を地図で測ってみると・・・
家康が最後に陣を敷いた場所と松尾山山頂の距離は、2.3km。山の山頂でないとしても、1.5kmくらいの距離がある。
そんな距離が離れていて、鉄砲(火縄銃)の弾が届くのか?音は聞こえるのか?
疑問ですね・・・(というか、無理ですね)
現代の歩兵の主武器アサルトライフルでは、有効射程距離は300m~600m程度です。飛距離は、もっとありますが狙える距離としてはそれくらい。300m前後が実際の距離だと言われています。
では、高性能なスナイパーライフルはどうでしょうか?これでも、800mくらいが限界でしょう。1km越える狙撃なんて無理です。
当時の火縄銃ではどうでしょうか?
殺傷距離200m 確実殺傷距離50mと「歴史人」には書かれています。当時の鉄砲は「ライフリング」がないので、丸い弾がそのまま飛ぶので安定しません。黒色火薬という点でも、現代の高性能な火薬よりは威力は落ちますので、そんなものでしょうか?
長い時間の中で、話が盛られたのでしょうね。実際には、戦況を見て秀秋が判断したというのが正解かも知れません。話的には、おもしろくなるのですが・・・
小早川秀秋の印象が変わりましたか?自分は、変わりました。