毎週金曜日の深夜に「山田孝之の東京都北区赤羽」という番組が放送されている。概要は、俳優の山田孝之が主演映画の撮影中に役に入りすぎてしまい、演技が続けられなくなり、そこで、漫画の「東京都北区赤羽」を見て、赤羽に住んで生活をしていくというドキュメンタリーなのか?ドラマなのか?どちらでもないのか?わからない番組。
赤羽で生活していく中で、色々と人と出会い色んな体験をしていくということなんだけど、前回の放送では凧を揚げて、そこで赤羽のみんなと酒盛りをするわけですが、ジョージさんにこっぴどく怒られてしまうわけです。
ジョージさんには、最初の出会いの時にも怒鳴られたわけです。山田孝之の心情としては、商店街の会長さんに祭のハッピをもらい、電飾凧を揚げてみんなと飲んでいる時点で赤羽に馴染んだと思っていたのでしょうけど、馴染むってことはそうじゃないだろうと・・・言いたかったんだろうな。
というか、馴染むなんてことは本当に出来るのだろうか?と思ってしまう。どこに行っても、そこで生まれて育っていなければ所詮「よそ者」という風にしか見られない。そういう傾向は、日本では強い。特に田舎になればなるほど強い。
全然、田舎だし薩摩こそ「よそ者」を嫌う土地なのに。そこに生まれて育ったならわかりそうだけど。
九州人(自分もそうだけど)は、九州から出ると九州の人間で固まる傾向がある。というか方言でわかるし。これは、他の地方出身の人も同じだろうけど。
これが、九州に戻って九州支店とかにいると当然周りの人は九州の人。今度は、県ごとに分かれていく。そこで違うのが、「薩摩」。なぜか、鹿児島出身の人は、九州の中でも「薩摩」は違うという感じで来る。まあ、明治維新の立役者でもあり、戦国時代には、秀吉が来なければ九州を平定していたであろうから、九州の中では優秀な藩なのは間違いないのだけど。
そういう意味でも、九州の中でも薩摩は排他的な感じだった。対抗するのは、西南戦争でも官軍の拠点だった熊本城がある熊本。熊本も、九州の中心は熊本という自負があるらしい。自分が接しやすいと思ったのは、長崎の人。理由はわからないけど、元々海外からの人も多かったので、違う人と接するのが得意なのか???
そんな感じで、いつまでも出身のことを言われたりするのが嫌だから都会にいるのに、なんでわざわざ赤羽にいって、そこに馴染もうとするのかわからない。
馴染もうとする行為自体が、自分が違うことをやっている証拠で、そんなことをしても芸の足しになるのだろうか?と心配してしまう。
素の自分のまま生きて、馴染めなければ違う土地に行けばいい。生まれた土地から離れた人間だから、もうどこに行って住んでもいいわけだから。
そういえば、博多の屋台でラーメン食べていたときに「お客さん、今日はどこから?」と店主に聞かれた・・・「いや、これから実家に帰るところ」って答えた。
う~ん、何年住んでいたと思っているのか???何回食べたと思っているのか???観光客だと思って、ボッタくるつもりだったのか?屋台のラーメンの値段くらい知ってるよ。と。
「なんいいよっと!これから、帰る途中やけん!」と博多弁では言わなかった。標準語で言ってやった。標準語を話す九州出身の人も多いぞ!と。
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