とりあえず移転してみました

ニュースねたや、IT系の記事を書いていくつもり・・・ですが、どうなるかわかりません。まあ、とりあえず やってみます。

江戸時代って思っていたより自由だったかも・・・

学校で習ったのが江戸時代の身分制度で「士農工商」という身分で分けられていたと・・・士は、武士で特権階級なのは明確で、次に農業が主な職業だったので、農民を次に持ってきた。

次は、物を作る人で職人を持ってきた。最後には、商人を置いて一番下の身分とした。

そんな感じで教わった。明治新政府になって、新しい時代になり「四民平等」ということで身分制度が無くなったとも教わった。
江戸時代という鎖国を行っていた閉鎖的で、身分制度がある古い時代が変わったという認識だったけど、最近の考えでは身分制度というのも無かったようだ・・・

支配階級の武士は、当然一番上なのは変わらないけど、「切捨て御免」と言われるように、武士に無礼を働いた町人はその場で切り捨ててもお咎めなしというのものだけど、存在はしていたけど簡単に人を切れるわけはない。

過去の文献とかでも、武士と言えども飲食店の行列に町人と一緒に並んでいたりするので、実際にはもっと緩やかなものだったと思われる。
町人も、身分の違いなんかわからない。身分によって、着るものが違っていたりすればわかるけど、そこまでの身分制度ではないから、全く判別できない。

時代劇とか見ても、町人の格好で職業はわからない。江戸時代は、地方から沢山の人が働き手として来ていて、その関係で屋台で寿司とかそばが流行ったので、そう考えても明確な身分の違いなんてわからない。

引越ししても、役所に届け出る必要もないだろうし、以外と気軽な生活だったのかも知れない。

明治政府としては、江戸時代が悪い時代だったという定義付けをしないといけないから、色々と後つけで悪いイメージをつけていったのだろうな。今の政府も、山口県長州藩)出身の首相が多いということからも、明治政府の流れから変わっていないわけで、明治という違う時代というよりは、同じ流れの中で生きていると思ったほうがいいのかも知れない。

長州藩が討幕の中心になったのも、関ヶ原の合戦で西軍の総大将の毛利輝元が敗戦により、中国地方110万石から周防、長門29万石に大減封となった。当時の本拠地の広島から萩に移ることになり、収入が減ったことで苦労した。

その事から、毛利家は代がかわっても徳川を討つことを忘れることがなかったと言われている。

江戸時代が、265年続いたのに忘れなかったということを考えても、明治時代から現代までは149年しか経っていないので、最近の出来事だとも言える。

人の恨みというのは、恐ろしいな・・・

 

9月1日は、1年で自殺者が多い日と聞いて

朝のニュースで、9月1日は1年間で自殺者が多い日と報道されていた。というのも、夏休みが終わり新しい学期が始まる。
つまり、今日から学校に行かないといけない。4月から新しい学年になったり、新しい学校に通うようになり5月くらいには慣れてきて、6月、7月ともなると段々と状況も見えてくる。

いじめにあっている人からすると、夏休みが辛いことを忘れているのに、新しい学期が始まり苦しい時間が始まると思うと苦痛でしかない。

報道では、いじめにあっている人は不登校となり、フリースクールに通うようにしたという事だったけど、ここでも色々と思うところがあった。

というのも、小学校、中学校は学区が決まっていて、住所によって通う学校が決まってしまう。その境界が道路だったりするので、境に住んでいる人なんて、目の前に学校があっても学区が違うと通えない。遠くてもその住所の学区の学校に通わないといけない。
この段階でなんで???と疑問に思ってしまうけど、通う学校は選択できるようにして欲しい。

通っている学校で、いじめにあったら近くの学校に変更できるようにするとか、近くの違う学校に行けるようにするとか。なにも、苦しんでまで同じ学校に通う必要があるのか?

社会人になれば、自分に向かない仕事場だったり職場環境が嫌だったら、転職でも職場の変更でもできる。苦痛に感じてまで行く必要もない。
それでも、社会人になっても職場でのいじめとかで自殺する人もいる。ただ、社会人になれば自分で選択できる範囲は広がる。

子供には、そういう選択がない。これだけ「いじめ」「自殺」が問題になっていても、学校や教育委員会などは隠蔽することしか頭にない。「いじめ」なんて言葉で軽く思えてしまうのか?れっきとした犯罪で、「傷害罪」「名誉毀損」で訴えられるレベルであったら、刑事事件にしてもいいくらいだろう。

子供の将来が・・・という話も聞くけど、自殺したほうは先なんてないのだ。怪我や物を壊したら犯罪だ。毅然とした態度で臨まないから、何も解決しないのだと思う。

いじめにあって辛いと思って、自分に非がないのであれば是非「格闘技」を学んで欲しい。格闘技を学んで、その技で復習・・・という事ではない。格闘技の練習は辛い。本当にしんどい。その中で、体も心も鍛えられる。そうすれば、周りも変わってくる。
それでも、いじめるような奴がいれば使うしかないのだけど・・・ただ、こちらはいつでもやれるという気持ちがあれば、変わってくるのは間違いない。

国と国の関係でも同じ。いつでも戦える軍隊や装備などがあるから、国同士で会話も成立する。国防できる軍隊もなければ、まともに相手にしてもらえない。今までの歴史で証明されている。

格闘技をやってみれば、強い人が沢山いるのがわかる。そういう人達と練習していれば、いじめてくる人間なんてなんとも思えなくなる。フルコンタクト空手で言えば緑帯くらいになれば喧嘩でも通用する。

でも、緑帯では道場ではまだまだ弱い。何もしていない人との差というのは大きい。相手にしても下らないくらいに。
だから、素人相手に勝っても何の意味もない。むしろ、馬鹿にされるくらい。そんな暇があれば、もっと練習しろと・・・

話はそれてしまったけど、数日前のテレビ番組でも学校の行事で遠泳したり、ダンス大会に出場する高校とかの指導が放送されていたのだけど、結局「精神論」。小学生が遠泳に向けて練習する時も、厳しいのだけど精神が弱いからダメという話だった。

ダンスとかも、放送されていた内容でも何かあれば階段ダッシュというパターンで、これって何の意味が???というのが多かった。

学生時代には、こういうのに従っていたけど、今考えると全く意味がない。精神だけで遠泳は成功しないし、階段ダッシュでダンスも上手くならないだろう。精神論を強調すると旧日本軍のようになってしまう。

学校教育には、今は疑問しかない。

 

ボクシング・山中選手に勝ったネリ選手に薬物違反?

具志堅用高さんが持っている13度連続王座防衛記録に並ぶ防衛試合で、山中選手に勝った挑戦者ルイス・ネリ選手に薬物違反の疑いが浮上してきた。
試合の前の検体で、禁止薬物の「ジルパテロール」が検出された。これは、筋肉増強剤に似た作用があるらしいのだけど、メキシコでは畜産でも使われるものだとか。

つまり、メキシコで食べた肉に含まれていた可能性もある。

試合後に提出された検体でも検査を行っている状況で、今後どうなるか?はわからない。
ただ・・・禁止薬物が検出されている以上は、通常のスポーツであれば「無効試合」となるのは当然だと思う。

しかし・・・ネリ選手が強いのは変わらない。連打のスピードといい、パンチ力といい。
もう一度対戦したとしても、簡単な相手ではないのは確実。

更に問題なのは、山中選手。V13目前で負けてしまい精神的にもショックが大きいだろうし、無効試合だからと言って、もう一度戦うモチベーションが返ってくるのか?

チャンピオンになるのも大変だし、12度も防衛しているというのは本当に凄い。そういう状況で、プロになって負けたこともない選手がTKOで負けたのだ・・・どれだけ精神的にしんどいか・・・これは、誰にもわからない。

今後どうするのか?復帰してまた王座を狙うのか?その場合は、ネリとまた戦うことになる。それならば、階級を変えるとか・・・WBAにするとか。色々と考えてしまうことだろう。

色々なことを考えていたら、今回のニュースで無効試合になるかも・・・という話になっても、気持ちが切り替えることが出来るのか?

それにしても、13度の防衛記録というのは本当に凄い。今は、世界戦となると半年に1回できるかどうか?のペースなので、半年に1回できて勝ち続けても、6年半かかってしまう。その間、チャンピオンに君臨するというのは想像もできない。

具志堅さんが現役の頃は、もっと試合間隔が短かったらしいのだけど、だとしても偉大な記録だ。

WBCJBCが今後どうするのか?無効試合とするのか?その場合、王座はどうなるのか?再戦となるのか?

 

お経の意味を坊さんも全部知らないのか・・・

お坊さんが書いた本を読んだのだけど、ちょっと残念な内容だった。
タイトルは書きませんが、お坊さんの内情とか現状をどう考えているか?という事が書かれているのかと思っていたのですが、イベントとかの議事録とかブログに近い内容でした。

まあ、それはいいのですが・・・

戒名が必要な理由を説明できないお坊さんが多いとか、お経の意味が説明できない人が多いとか書かれていたのですが、お坊さんもお経の意味を全部知っているわけではない・・・と書かれていたのです。でも、お経を信仰を持って読むことで意味はわからなくても、仏様に通じると書かれている。でも、最近の人は意味がわからない物に有難いと思わないから仏教を離れる人が多いとも。

なんか強引な話だと思ってしまった。お経の意味は全部知らないけど、有難いと理解できなくても思いなさいという風に受け取れる。

意味はわからなくても、音が重要という事なのだろうけども、どうなんでしょうね???

そもそも、お経って元々はインドのサンスクリット語で書かれていたわけで、その経典を中国のお坊さん達が頑張って漢字に訳して日本に伝わっています。

でも、意味が不明な部分もあって、その部分は発音だけを似たような漢字であてているらしいのです。

般若心経の最後の部分「ぎゃーてーぎゃーてーはらぎゃーてー・・・」という部分も意味が不明だけど、音に合わせて「羯諦羯諦、波羅羯諦・・・」と書いてます。実際には、「がーてーがーてー」と発音するとか。

音に漢字を当てているので、そのまま漢字を読んでも理解できないのです。つまり、お経だけでは基本的には意味不明・・・それに、漢文だから尚更。でも、お経ってお釈迦様が説かれた話が書かれているわけで、意味がわからんけど有難いってのはお坊さんが言ってはいかんだろうに。

日本の仏教も、檀家の減少と跡継ぎがいないという問題もあるけども、跡継ぎ問題にしても「世襲」が一般的だから子供に男子がいて、その男子が継がないとお寺も跡継ぎがいないという話も書かれていたけども、そもそもなんで「世襲」なんだろう?

そこの問題についても、なにも書かれていなかった。世襲が基本なんて言い出したら、お釈迦様の子孫か、その高弟の子孫くらいしか継げないだろうに。そうだったら、そもそも日本にお坊さんがいるのがおかしくなる。

世襲なんてなるから熱意のあって能力の高い人が少なくなるのだろうに。意味がわからんけどお経を読んで、家を継いで檀家さんからお金もらえるからいいや・・・くらいなんだろう。まあ、お坊さんというか家業だよね。

職業だったら、みんなと同じ。

結局、意味不明な世界なんだろうなー。

 

繁盛店で1時間待つよりも、近くの少し寂れた店がいい・・・

東京に住んでから、そこそこ年数が経過すると人混みにも慣れてきて、並ぶのも苦にならなくなってきました。
しかし、それまでは九州や神奈川(西部)に居ましたし、九州の数年はクソ田舎、ド田舎に住んでいましたから、並ぶというのは嫌でした。

並ぶというか、そこまで人がいない・・・というのが本当のところですが・・・21時を過ぎると市内の中心部の信号が赤点滅するなんてのは今考えても異常です。田舎暮らしなんて言われていますが、若い頃の情報が欲しい時期に全く情報が入らないというのは不幸です。
いくらでも情報が入るし、色々なことに興味がある。でも、情報が手に入らない・・・嫌ですね・・・

また、話が逸れてしまいましたが、都内に住んでいると雑誌やテレビで紹介されていたお店などに行けることが多くなります。美味しいそうな店なんかに行こうと言われるわけですが、当然混んでいます。

待ってから入店するわけですが、入店しても混んでいるので料理を食べることが出来るのはまだ先です。そういう状況の時に、自分では近くの少し寂れたお店のほうが好きなんです・・・そうは言っても、1人で行っているわけではないので、許してくれません。

「何のために、ここまで来たの!?」

となるわけです。

「いや、来たいとは一言も言ってません」なんて事は、言えませんので心の中で復唱します。

「いや、来たいとは一言も言ってません」
  「いや、来たいとは一言も言ってません」
      「いや、来たいとは一言も言ってません」
          「いや、来たいとは一言も言ってません」
              「来たいとは一言も言ってません」
                  「一言も言ってません」
                      「言ってません」

待つ時間が長い=期待値が上がる
待つ時間 = 美味しさ と釣り合わないと意味がない。
雑誌で紹介された = 期待度初期値UP!!!!

そういうお店は最初からハードルが高いのです。まあ、美味しいのでしょうけど、期待値が高いだけにいつも・・・

「まあ、普通だね・・・」って感想になってしまう。

逆に、近くの少し寂れたお店だと・・・

最初から期待値DOWN↓
待ち時間少ない = 美味しさ の要望も小さめ
寂れている = 期待値更にDOWN↓

そういう状況なので、食べてみて美味しいと落差が激しいので、「すげー!うまい!」となるのです。
まあ、でも、人生ってそういう事って少なくて、大抵の場合は、「普通だね・・・」で終わるわけです。

少々長く生きていると大抵の味は知っているわけで、どんな美味しい物だとしても期待値を大幅に上回るものってないものです。
ステーキが美味しいと言っても、ステーキの味は知っているわけで、そこを大幅に超えて「ハンバーグの味がする!」なんてことはありえないわけで・・・
結局、想定している味の範囲から大きく超えることは少ないわけです。

更に、男の場合は味がどうのこうのというよりは、腹が減った時に燃料を補給したいという意識のほうが強いと思うのです。
そこが女性の場合は、少し我慢しても美味しいものが食べたいという欲求のほうが強いように思います。

男は、食に関しては超保守的だと思うのです。目的が燃料補給という意味あいが強いのだと感じています。なので、空腹で動けないという時間を避けたい。ちょっとでも、缶コーヒー飲んだり、コンビニでおにぎり買ったりしたいのです。

ところが、女性の場合はそこは我慢できるようです。

保守的なので、時間をかけて有名店に行くよりも、近くの食べなれたラーメン屋が良かったりします。カレー、ラーメン、カツカレー、ハンバーグ、牛丼の永遠のローテーションでもかまわないのです・・・ええ・・・

だから、どこぞのお店に男性を行かせるには、単純にどこそこのお店で○○食べようという誘いかたと、そのお店の近くに男性の好物のなにかがあれば、そこ経由で行こうと言ってみる。

青山のイタリアンに行こうよ・・・その前に、近くのなんとかアイス食べてもいいから・・・ってな感じで。
自分の場合は、本屋とか文具屋とかかな・・・ちょっと、好物とか好きな所を入れると簡単に釣れます。

まあ、男なんてそんなもんです。(泣)

ああ・・・吉野家行きたい・・・


 

男が美容院が苦手な理由・・・

いつも読ませて頂いている「にーちさん」の記事で、美容院に関しての記事があったので、まずは読んで頂きたい。

www.nych87.com

いや、これは本当に大変・・・トータルで待ち時間は何時間なの???と思ってしまう。

女性でも美容院って色々と気になることが多いんだなーと。しばらくは、美容院に行かされていた自分としても他人事ではない。
美容院って「散髪屋」しか行っていない男からすると異空間なんです。

異空間なので、「まあ、そんなものか・・・」と思ってしまうのですが、それでも段々と面倒になってくる。

まず・・・髪を洗うのに移動しないといけない。
散髪屋って、座っている前に鏡があって、その下に洗面台が隠れている。髪を洗う時に、それを引き出して髪を洗う。
座っている自分は、頭を前に下げて少し移動するだけ。
美容院って髪を切る場所と洗う場所が別なので、歩いて移動する。しかも、後ろに倒れるので首が・・・

首大丈夫ですか?」なんて聞かれるけど、基本的に首痛い・・・


対応してくれる人が微妙な場合が・・・ある・・・

散髪屋って基本的に夫婦でやっている場合が多くて、お父さんが髪を切って、その次にお母さんが洗ってくれて、ヒゲを剃るというパターンが多い。なので、どんな感じになるか想像ができる。「ちょっとな・・・」と思ったら店を変えればいい。

同じ店に行く限り、基本的にメンバーが変わらない。

ところが美容院になると、誰が髪を洗うのか?わからない。基本的にはいい人が多いのだけど、オサーンが美容院に行っていると「んんん???」と思うことが何度がある。

・洗う時間が極端に短い。
 若い男性が洗ってくれたのだけど、本当に数秒だった。頭なんて「サササー」くらい。きっと、オサーンの頭を触りたくなかったんだろう。
 まあ、理解できる。せっかく、美容院で綺麗な女の人を相手にしようと思ったら、オサーンの髪を洗うってのはね・・・仕方ない。

・目つきが怖い
 これは、若い女性の人だったけど、基本笑わないし目が怖い。常に怒っている。まあ、そういう人もあるので、こちらも会話しないけどね・・・
 オサーン相手は、嫌なんだろうけどね・・・

・待ち時間が長い
 散髪屋は大体1時間くらいで、髪切ってヒゲ剃って・・・って感じで終わるけど、美容院の場合は予想できない。待ち時間が長かったりする。
 あれ?どこの行ったの???くらいの感じだ。

男の場合は、そんなに拘りがなければ散髪屋で十分。というか、別に美容院が悪いわけではない。美容院というシステムがオサーンには厳しいだけ。オサーンは、はよ髪切って帰りたいだけ。オサーン同士で、髪切ってもらって、おもろいおばはんにヒゲ剃ってもらえればいいのだ。

美容院に行けば若い女性に髪切ってもらえる・・・という発想の人は違うと思うけど、正直面倒だ・・・休みの日は、帰ってテレビみたり筋トレしたり寝るほうが優先度は高いのだ。

むしろ、坊主にしたいくらいだ・・・

 

この時期になると・・・

お盆の時期になると、お墓参りだったり帰省だったりとなるのですが、もう1つ忘れていけないのは「終戦
この時期になるとテレビでも戦争についての番組が多くなります。

悲惨な映像などを見ていると心が痛くなりますが、疑問に思うことが多々あります。戦争の悲惨さを伝えるというのはいいのですが、そこばかりに焦点がいってしまい、もっと問題な部分に焦点が行っていないように思うのです。

まあ、報道というのは事実だけ伝えてどう思うのか?どう考えるのか?は見ているほうが考えるものだということなのでしょうが、作る側の意図が内容に反映するというのは誰でもわかることです。

戦争=悲惨=いけないこと というのはわかるのですが、それだけでは何故?あれだけの戦争になったのか?もっと、早く止めることは出来なかったのか?などなど・・・いまだに解決されていない問題が多いと思うのです。

特攻という作戦が実行されている時点で、人も物も無くなる一方で、挽回なんか出来ない・・・むしろ最悪な方向に向かっているというのはわかることです。でも、止めることが出来なかった・・・当時の状況では、そんな事を言えるわけがないということなのでしょうが、だからこそ戦争を継続しても損害だけが増えて大変なことになると、上層部が判断しなければいけないわけです。

今でもそうですが、重要な決断を先延ばしにして問題が大きくならないと変わらない。これも、今も変わっていない・・・

問題の責任を取るのはいつも下の人間・・・これも変わらない。

あの時代から変わることが出来たのだろうか?